§4 《見ること》と《所有》


 これまで書かれた写真論のうちでも最良の成果のひとつと言っていい、『写真について』(1977)の中で著者のスーザン・ソンタグは、人類はいまだにプラトン的観念論から抜け出せず、感覚によって捉えられる世界の意味をつかみ損ねていると批判する。いまやわれわれは写真によって、世界はイデア的イメージとは関わりのない無数のイメージから成り立つことを知った、と言う。

 写真はわれわれに新しい視覚コードを教えながら、見る価値のあるものや見る権利を持っているものに対するわれわれの概念を変え、それを拡張させる。写真とはひとつの文法であり、さらに重要なことは見ることの倫理体系だということだ。結局、写真が華々しく発展した結果われわれは、全世界をイメージの集合体として頭の中で所有できる、という感覚を抱くようになった。 (3)注)8

 ここから「写真を収集することは世界を収集することだ」というソンタグの命題が引き出される。映画やテレビなどの映像は浮かび上がっては消えてしまうので、所有という観念には結びつかない。スチール写真であれば、イメージはひとつの《もの》であり、安く作れて、軽く、持ち運んだり蓄えることも簡単だ、と言う。 (3)

 デジカメで撮った画像を小さなモニターで見て感じる満足感は、このような古代以来の人間の願望、世界の所有/支配の観念と結びつく。
 旅先で美しい風景や史跡などを持参したカメラに収めることは、ある日ある時にそれを見たという行為を保証する物的証拠となるだけでなく、美しさや感動を感じた瞬間を長く保持したいという無意識の欲望のなせるわざであり、被写体である事物の所有と深く関わっている。もっとも、旅行者が撮った写真の多くがその人にとって感激の瞬間を喚起する記号とはなりえても、他の人にとっては凡庸な山や海や草花などである場合が多いことは、撮り手が写真の視覚的コードや所有の意味を十分に理解していない事実を表してはいるけれども。
 E・H・ゴンブリッチは著書『芸術と幻影』(1956)の中で、20世紀初頭の、大きな美術革新の嵐がヨーロッパを席巻し、自然の再現(ミメーシス)の価値が失われ、それ以降写真的正確さは芸術的にすぐれていることとほとんど関わらなくなったなくなったと示唆している。 注)9

 写真の発展とともに、絵画に対して写真は視覚的描写力に卓越していることを示しただけでなく、絵画という芸術が人や自然の忠実な描写よりも、歴史・人物・風景などの絵画のジャンル別に定められた伝統的様式と美学に従うことを最優先し、いわば伝統の美の枠組みを通して自然を見ていた事実が明らかになったのではないだろうか。
 さまざまなレンズが選び取る光景そしてフィルム面に結ばれた像を化学処理して出現させる写真技術は、絵画では成しえなかった視覚的イメージを生み出した。人はそれによって、伝統的絵画の描法によって見ることから解放されて、カメラのレンズの分節する世界像を手に入れたのであり、世界を見る新しい眼と価値観を獲得したのである。

 ソンタグはフランスのゴダール監督の映画『カラビニエ』(1963)の中から、レイプに略奪やりたい放題してもいいと言いくるめられて軍隊に入りパリに行った二人の農夫が、トランク一杯の絵葉書をもって意気揚々故郷に戻った話を紹介している。彼女はこれは写真的イメージの魔術的喚起力をパロディ化したものと解説する。
 だが記念碑やデパートや動物や自然の驚異や交通機関など世界のさまざまな構成物を写した絵葉書は、写真によってものがイメージ化されて価値を与えられた例であって、実物ではなくイメージを所有することにこそ価値があるという新時代の到来を告げている。


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