ヴォルテール作の『ザディグ』1747に、善意が徒となる運命のいたずらを例示した有名なエピソードがあります。主人公のザディグが王宮から逃げた馬の特長を足跡の分析からピタリと当ててしまい、それによってかえって馬泥棒とされてしまうという話がそれです。このエピソードのせいで『ザディグ』はまた、探偵小説の父ポオを準備する推理の物語としてよく言及されます。しかし、足跡からそれを残したものの属性を推理するだけなら、西部開拓時代はもとより恐らくは狩猟採集時代にまで遡れうる単なる「技術」にすぎません。ドロシー・L・セイアズはイソップに言及しています(「お前はなぜわしのところへご機嫌うかがいに来ないのだ」とたずねるライオンに狐は「おそれながら、陛下、あなたのところに伺った動物たちの足跡には気が付いておりましたが、中に入る足跡はたくさんあるのに出てくる足跡は一つもありません。洞穴に入った動物たちが出てくるまで、私は外におりたいと思います。」)。 重要なのはこれが推理という意匠をこらした新しいレトリックであった点です。実際、知性的探偵が登場する物語では、本事件前のウオーミング・アップ(小手調べ)によくその探偵の知性デモが行われます。ある依頼人を一目見たホームズはその人が1)腕力仕事をしていたこと、2)かぎタバコを愛用していること、3)フリーメイソンのメンバーであること、4)中国に行ったことがあること、5)最近書き物に精出していることをピタリと当てます(『赤毛連盟』)。これを聞いた当人(とワトソン)は驚きますが、ホームズにはもちろん、1)右手が左手より大きい、2)円弧とコンパスを描いたネクタイピン、3)入れ墨のモチーフ、4)袖口が変色している、など推理の根拠がちゃんとあります。 探偵による知性デモで最も有名なのは探偵小説の祖デュパンのそれでしょう。ある日、語り手の「私」とデュパンはパリの街を15分ばかり無言で歩いていました。するとデュパンが突然「その通り、たしかに、あれじゃ寸が足りん。やっぱり寄席の方が向くだろうよ。」と「私」の考え事を見抜いて口を挟むのです。「私」の内的意識で生じたことばの連鎖を、デュパンは15分前に出会った果物屋を起点に推論し、しかも「私」の表情変化の観察によりそれを確認してきたというのです。 デュパンが再構成した私の「意識流」は次のようになります。 果物屋(観察)→通りの敷石(観察)→ステレオトミー[載石法](観察)→アトミー[原子](音による連想)→エピクロス[最近の話題]→ニコラス博士[宇宙星雲起源説]→オリオン星座→新聞批評欄[「始めの文字は昔の音を失った」]→オリオン[Urion→Orion]/シャンティリー[靴直し→悲劇役者](観察)→シャンティリー=小男(観察)。「分析的知性(the analytical)」と呼ばれるこの能力は、一見複雑そうなチェスではなく、一見単純にみえながら相手の観察を含むあらゆる情報処理を要するチェッカーにこそ必要な能力だとされます。言い換えれば、真のチェッカー・プレイヤーに託された能力とはチェッカー・ボードの枠を越え、世界そのものをゲーム化する能力ということになるでしょう。デュパンとはその能力の擬人化に他なりません。これは自然の脱自然化(=人工化)を夢見る近代の幻想に正確に呼応しています。科学的観察を精密にしていけばいずれは世界全体を数学的に解析できる瞬間がおとずれ、さらにそこから未来についての完璧な予測能力も獲得できるのではないか(「与えられた瞬間のうちに自然を動かすもろもろの力と自然を構成するさまざまな存在のそれぞれの状況を認識しうるような一個の知性は、さらに得られたデータを分析できるだけの幅広さをもつならば、宇宙最大の物体の運動と最小の原子の運動を同じ公式で把握できるだろう。そのような知性にとってはいかなるものも不確定ではありえず、未来は過去と同じようにその眼前に現出するであろう。」ラプラス『確率解析論序説』、ボワロ=ナルスジャック『探偵小説』より)。こうした楽観的な科学主義が終焉を迎えたように、探偵の分析的知性もイデオロギーとして乗り越えられたなどと穿った告発をするつもりはありません。また、ポオ本人がそのような楽観論に与する精神構造をもっていたとも思えません。 ポオの世界はあくまでも雰囲気の世界です。ポオのゲーム・ルールは、自明の理として提起されながら、実は現実界でけっしてテストされることのない(したがって、証明も反駁もされない)、あくまで言語が構築する恣意的な疑似論理なのです。ポオにおいて、ゲーム化できる世界とはあくまでも虚構の世界にすぎません。「彼[デュパン]の結論は、方法それ自体によってもたらされるのだけれども、直観としか思えないような雰囲気を漂わせているのだ」(『モルグ街の殺人』)。これはレトリックと考えるべきでしょう。デュパンが化身する分析的知性とはむしろ方法的な雰囲気を漂わせた直観です。それは欲望の内容がそのまま存在し始め、決して反駁を受けることなく存在し続ける夢の世界の閉鎖性・自己充足性に似ています。しかし、この雰囲気に読者を誘い込み、「直観としか思えないような雰囲気」が「方法それ自体によってもたらされる」と信じさせる(信じたふりをさせる)こと、この新しい読み方(ゲーム・ルール)の確立こそ、推理小説というジャンルが誕生する前提条件であったことは間違いありません。 |