『チャイナタウン』

あらゆるジャンルに手を染め、その映画的才能を遺憾なく発揮してきたロマン・ポランスキーの手になるこの映画の物語としての特長は本論で扱うことにして、以下では映画的特長を挙げてみることにします。ストーリー展開の緊密さもさることながら、映画話法の冴えは緩急のリズムにあると思われます。例えば、モウレーを尾行するシークエンス。この間に後の伏線となる情報が与えられるのですが、映画的におもしろいのはその情報があるときは実に緩やかに(ロバを引く少年がゆっくり近づいてくるシーン)、またあるときは突如として(尾行を続けてついに夕暮れをむかえたギティスを水路の急流が突然襲う場面)与えられることです。また、全体として一貫性はあるにしてもやや複雑な筋の展開を飽きさせないのは、各シークエンスにこちらの注意を引きつけずにはおかない要素を巧みにちりばめてあるからです。
  • 性行為を写した写真に始まる最初のシークエンス、
  • 市の聴聞会場への家畜の登場、
  • プールの水門が突然開きギティスがあっという間に押し流される場面(リスクを考慮して一番最後に撮影されたという)、
  • ポランスキー演じる用心棒がギティスの鼻をナイフで切る残酷な場面、
  • さかんに口癖を言いながら池の藻を手入れする使用人(この"Bad for the grass"に重要な情報が含まれていることが後でわかる)、
  • 水道局の事務室の中年の女秘書や登記所の若い男事務員の存在感(筋の上では端役にすぎないが、その存在自体がこちらの注意を引きつける画面上では貴重な存在)、
  • モーレイ夫人とその娘を乗せた白い車が急停車し、クラクションが鳴りやまない印象的な最後のショット(クラクションはそれに先立つ告白の場面ですでに使われている)等々。

また、原作にポランスキーが加えた大きな変更が二つあり、ポランスキー映画のトーン、後味の秘密を知る上で興味深いものがあります。ひとつはギティスがモーレイ夫人と一夜をともにすることですが、ストーリーの展開方向を大きく変えないとはいえ、以後の味付けに決定的に影響します。モーレイ夫人がギティスにとって単なる顧客以上の存在になり、最後にギティスが失うものも一人の女となるからです。物語の掛け金が増大したと言ってもよいでしょう。

もうひとつは悲劇的な結末です。結末をハッピーエンドにするかサッドエンドにするかは、ジャンルの法則などの外的要因で決められることが多く、筋自体に必然性を持っていることは稀です。コメディをサッドエンドにすることはジャンルの法則が許しませんし、悪人が生き延びる物語は映画史上では比較的新しい現象です(ヘイズ・コードが廃止されたのは1968年)。黒澤の「悪い奴ほどよく眠る」あたりに始まる巨悪を告発する映画(疑獄もの、組織犯罪もの)は以後サッドエンドをそのジャンルの法則とすることになります。ブラック・ユーモアの監督ポランスキーがサッドエンドを常に選ぶのは彼の個人的なパトスや物語観によるのはもちろんですが、こうした選択を可能にする映画史的背景も忘れてはなりません。