近代制度:探偵物語の文化史

どの文学ジャンルも歴史の産物であることは言うまでもありませんが、このことは探偵物語については一層あきらかです。探偵物語には不可思議な出来事を近代的な(科学的な)方法で探求する存在(探偵、警察)とその仕事を支える近代的な体制(法制度)が不可欠だからです。

19世紀以前のヨーロッパを考えてみましょう。中世においては法は神の正義の発現と考えられており、犯人として告発された者の方が身の潔白を自ら示さねばなりませんでした。そのため神明裁判では、容疑者は熱湯の中に手を入れたり、高熱の鉄をにぎったりして、その治癒期間の短さにより潔白を証明しなければならなかったのです(新倉俊一『ヨーロッパ中世人の世界』)。宗教の法への介入はその後も続き、15世紀末から17世紀にいたるまでヨーロッパで猖獗を極めた魔女狩りは言うに及ばず、17世紀〜18世紀のフランスではプロテスタントというだけでガレー船に送られました(J・マルテーユ『ガレー船徒刑囚の回想』)。処刑方法にしても、宗教異端者は火刑、国家反逆罪は八つ裂き、貴族は斬首、平民は絞首刑、という具合に宗教にくわえて身分制度が法体系の根幹をなし、これが18世紀半ばまで続いたのです(B・レヴィ『パリの断頭台』)。

すべてが変わるにはフランス革命を待たねばなりません。1789年の人権宣言によりすべての人間は有罪が証明されるまでは無実とみなされることになります(疑わしきは罰せず)。また、処刑方法も身分によらず万人に共通のものにすべきだとギロチンの生みの親、ギヨタンが提言します(皮肉にもギロチンは人権宣言の実体化の一例なのです)。フランスで内務省が創立され、警察署が配置されたのも革命後の1791年のことです。1800年にはパリ警視庁が創設され、5千人以上の都市に警察署が配置されました。ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)の創立は1829年です(「新しい警察が出現すると、すぐに今までの岡っ引き連中は姿を消しました。連中のことはよく覚えています。彼らは泥棒やたちの悪いやからとつきあっていて、...」ディケンズの書簡)。こうした近代制度に、犯罪者が跋扈する近代都市という背景が加わることにより探偵物語というジャンル成立の条件が整うことになります。ちなみに1801年に55万人であったパリの人口が50年後には倍増して128万人(1851)に達しており、ロンドンの人口は86万(1801)から423万(1891)に百年足らずで実に5倍近く増えています。

都市という名の新しい怪物の生理を<水の流れ>と<人の流れ>として考えてみることができます。人の流れを管理制御するために生まれたパリ警視庁は水の流れとも無縁ではありませんでした。パリ警視総監であったジスケ(1832-36)は立小便という悪習を慨嘆しています。しかも現実主義者であったジスケはこれをモラルの問題とのみとらえるのではなく、制度的な解決策としてパリ市内に1500の公衆便所を設置することを提言しています(喜安朗『パリの聖月曜日』平凡社)。都市とは膨大な上水を消費し、下水として排泄する怪物であり、都市の管理には近代的な上水・下水システムが必要だったのです。1825年にはウルク運河が完成し、1832年のコレラの大流行(死者1万8千)を教訓に下水道工事に拍車がかかります。

それでは人の流れの方はどうでしょうか。急激な人口増加は下層階級の流民化をうながしました。その媒体となったのが貧民窟ともいうべき安ホテルでした。都市中心部のスラム化の一方では、地価の高騰で職住空間の分離を生み、都市空間は大量の人間が行き交う場となりました。こうして、群衆という人間の新しい存在様式がうまれ、その群衆にふさわしい消費形態を象徴的・実質的に支えるデパートが出現します(桜井哲夫『「近代」の意味』NHKブックス)。ちなみに都市ミステリーの傑作ともいうべきポオの『群衆の人』が発表されたのは『モルグ街の殺人』の前年にあたる1840年のことでした。

近代が新しい形の犯罪をはぐくみ、また犯罪に対する新しいアプローチを与えたとしても、実はこれだけでは探偵物語誕生の必要条件を満たしたことにはなりません。犯罪が存在するだけではなく、それが語られうるものであること、さらにその物語が大量の読者を産みうることを明らかにしたのが大衆プレスでした。探偵物語の生成を19世紀に飛躍的な発展を遂げた大衆プレスを抜きにして語ることはできません(付録:ポオと推理小説『マリー・ロジェ殺人事件』の項を参照)。

このように、探偵物語がジャンルをなすには制度と舞台が整う19世紀中葉をやはり待たねばならなかったのです。