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探偵物語とは何か

 

森田 秀二

 

はじめに

私たちは物語に囲まれて生きています。本屋に行けば小説という名の物語が数多く売られていますが、それだけではありません。ノン・フィクションのコーナーにある読み物にしても単なる事実を集めたものではなく、読ませるための配慮がほどこされており、それがふつうは物語の形をとっています。私たちの脳では日々膨大な情報が処理されます。脳が統一性のある効率のよい情報処理をおこなうためには物語へのコード変換が必要なのかもしれません。これにより「私」「他者」とか「世界」といったイメージ(ゲシュタルト)がくっきりと浮かび上がることにもなるわけです。また、情緒的な情報整理のためにも物語が動員されます。例えば、過去に区切りをつけて新しい現在を生き直すときにも、人は過去をひとつの物語に変換します。「始まりがあって、それゆえ終わりがある」(アリストテレス)ひとつの完結した物語。過去との感情的な桎梏を断つためにもやはりそれを物語化する必要があるからです。

本稿は物語論の概説を目的としています。物語とは何かという一般的な問題が考察の対象です。物語の形は自由なのか、あるいは定型みたいなものがあるのか。物語はどのような部品からできているのか。物語は誰が語っているのか。物語はどの視点から語られうるのか。ここでは特に探偵物語というジャンルをコーパスに選びました。探偵物語は探偵の活躍を内容として描くわけですが、それは生みの親ポオにしてすでに物語という形式に対する問いも含んでいました。ポオ以降も探偵物語は物語形式の新しい実験の場であり続けました。例えば、誰を語り手に据えるかという問題が、探偵物語の場合では「視点の限定による読者に対する情報操作」という物語効果上の本質的な問題をはらんでおり、アガサ・クリスティなどの作家に個人芸を見せる機会を与えてきました。 このように、物語一般を考える上でも探偵物語が特権的なコーパスなのです。

本稿のもう一つの目論見はその発表形式そのものにあります。従来、活字媒体はカード形式など少ない例外はあるとはいえ、その物理的制約からリニアーな形を余儀なくされてきました。いわゆる論文ももちろんその例外ではありません。西洋の論文作法である正→反→合や提起→展開→結論にしても、東洋の起承転結にしてもそれぞれの文化に固有な論理型であると同時に、発表媒体の物理的制約が求める部分もあったのではないでしょうか。今日のコンピュータ・メディアは表現をリニアな制約から解放しました。ハイパーリンクがその典型的なツールですが、HTMLのフレーム機能もその一翼をになっています。本稿はこうした新しい発表形式の試みでもあります。あくまでも模索段階であり、リンクの中には全体の整合的なイメージ化を妨げるものもあるかもしれません。しかし、ハイパーテキストの場合、まさに古典的な整合性とは別の形の整合性、例えば、ロラン・バルトが『愛のディスクール・断章』などで試みたカード形式と書物の中間的なテキスト構成が求められているのではないでしょうか。本稿もまたそうした<形>の問題系を意識した模索的試みと考えていただければと思います。したがって、できればフレーム機能やJava Script をもちいたバージョンの方をみていただければ幸いです。


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