物語は何らかの謎(「誰が?」「なぜ?」「どうやって?」)により導かれます。必要な情報が小出しにしか与えられないからです。例えば、「それからどうなったの?」(And then?)という疑問が物語の展開を引っぱる場合があります。このタイプの物語をE.M.フォスターは story と名付けました。
The king died and then the queen died.
「王が死に、それから女王が死んだ。」
子供もはじめは story で満足するとフォスターは書いています。大人の story としては恋愛物語を考えればよいでしょう。男女の出会いがあっただけで、その瞬間から読者・観客は「この先、二人は一体どうなるのだろう?」と考えるはずです。特に昔の映画では、主演の男女が出会う場面で両者のクローズアップ・カットが入りましたから、観客はすぐにこの出会いが運命的な出会いであるという予感を覚えるようになっていました。アクション場面でわれわれがハラハラするのも「この後、主人公はうまく逃れることができるのだろうか?」という問いのためです。そして、問いが生まれるのは情報が巧みに操作されているからに他なりません。
ところで「それからどうなったの?」に甘んじていた子供も成長します。次の段階では「どうしてそうなるの?」と問うようになります。「なぜ?」(Why?)という問いが導く物語タイプをフォスターは plot とよびました。
The king died, and then the queen died of grief.
「王が死に、それから女王が悲しみのあまり死んだ。」
女王の死には悲しみという心理的理由があったのです。事項A(王の死)と事項B(女王の死)が継起関係としてだけでなく、因果関係としてつなげられている点で plot は story よりもレベルの高い、より知的な物語形式だと考えることができます。
フォスターはミステリー風味をきかせた plot 文も提供しています。
The queen died, no one knew why, until it was discovered that it was through grief at the death of the king.
「女王が死んだ。なぜ死んだのかは誰にもわからなかった。王の死に際しての悲しみのためであったことが判明するまでは。」
この例文だけをみてもミステリーが情報開示の遅延を巧みに利用する仕掛けであることがわかります。
探偵物語(Whodunit)もミステリー風味の plot の一種と考えられますが、心理的因果性(Why?)ばかりでなく物理的因果性(How?)に注目し、特に「犯人は誰か」(Who?)という謎を原動力とする装置と考えることができます。フォスターを敷衍するならば次のような文を考えればよいでしょう。
The queen died, it was believed that it was through grief at the death of the king, until it was discovered that she had been poisoned by X.
「女王の死ははじめは心労によるものとされたが、(探偵により)死因が毒殺であることが特定され、その犯人もやがて判明した。」
あとでもみるように、はじめの段階で信じられていたことが最終段階で覆される(アリストテレスのいう「逆転ペリペテイア」)というのが探偵物語の基本構造です。以下ではまず典型的な推理ものをモデルに考えましょう。
探偵物語は犯罪→捜査という二つのアクションからなっています。ふつうは犯罪行為そのものは描かれず、その結果(死体、犯罪現場)だけが示されます。つまり犯罪そのものは予め過去形で提示されるわけです。犯罪は一見ありふれた形をとる場合もあれば、はじめから謎に包まれた様相をおびる場合もあります。いずれにしても、捜査の前半では蓋然性の高い(いかにもそれらしい)容疑者像がまず浮かび上がります。被害者に怨みを持っていた乱暴な男、被害者に保険金をかけていた者、等々。ところが捜査を続けるとどの容疑者にもアリバイがあり、シロであることがわかります。捜査は今度は蓋然性は低い(思いがけない)が可能性が排除できない容疑者像(例えば、清廉潔白に見える紳士)に向かいます。「見せかけの『不可能性』が実際は存在しない」 (ポオ『モルグ街の殺人』)というのが探偵物語の鉄則です。そして、最終的には思いがけない人が真犯人(クロ)であることがわかるわけです。
私立探偵物の古典(コナン・ドイル、アガサ・クリスティ)では、謎の種明かしは大団円(d始ouement)で探偵が関係者を集めておもむろになされるのがふつうです。そのときまでは探偵の捜査状況や推理ぐあいはその一部しか読者には知らされません。探偵は大団円までは不透明な存在のままで、彼の思考のプロセスは部分的にしか明かされないのです。修辞学でいう省略法がこの種の推理小説の定型となります。探偵の不透明さを保つため、ふつう探偵自身は語り手(ナレーター)になりません。そのかわりに、読者と探偵の間のインターフェイスとして導入されるのがワトソン的存在ということになります。
ワトソンは一般的な知性を代表します。したがって、しばしば物事の外見(蓋然性)に左右されがちで、自分の力では真実に到達できません。彼の任務はあくまでもホームズに付き添い、読者にかわってホームズを観察し、彼の言行を読者に伝えるというものです。物語に参画し、かつそれを報告する演技者と語り手を兼ねた存在といってもよいでしょう。ホームズの特権的な話し相手ですから多くの情報をこちらに提供してくれますが、決定的な情報はやはり大団円まで先送りされます。ワトソンがどんなに知りたがってもホームズは肝心なことには口を閉ざすのです。つまり、物語のエコノミーからすれば、ワトソンの存在はホームズについての情報を読者に与えるアリバイになっていると同時に、それを遮断するアリバイにもなっているわけです。この後者の役割には読者はあまり気が付きませんが、とても重要です。
以上の登場人物の頭の良さを探偵物語が想定する「理想的な読者」の頭脳と比べてみるならば、ワトソン(参加型語り手)は読者よりも少し愚かで、 ホームズは読者よりもはるかに賢い ことになりましょう。これはあくまでも物語テキストが想定する読者像「理想的な読者」であり、「現実の読者」ではありません。「理想的な読者」とは、例えば、推理物語が用意している罠にうまくひっかかる読者のことだと考えていただければ結構です。「現実の読者」の方はといえば、むしろ張りめぐらされた罠をいかに出し抜くか、テキストのウラをいかにかいて「理想的な読者」の先をゆくかに関心を集中させているかもしれません。これもまた、この種の物語を消費するうえでコード化された役割に他ならないのですが。
古典的探偵物語のジャンル・ルールを最初に編み出したのはエドガー・アラン・ポオです。『モルグ街の殺人』(1841)の語り手は「私」以外の名前をもたず、ひたすらデュパンの活躍ぶりを書き記します。モルグ街の密室で起こった殺人は確かに常軌を逸した事件でした。
「びっくりする位の敏捷さ、超人間的な力、獣的な残虐さ、動機のない残忍さ、人間性から徹底的に縁遠い恐ろしい奇怪な行為[グロテスク]、いろんな国の人間の耳に外国語として響いた、ぜんぜん言葉が聞き取れない声」『モルグ街の殺人』
しかし、一見説明不可能な出来事を超自然的なものとはみなさないという決意こそ、探偵物語という新しいジャンルが幻想物語という旧ジャンルと袂を分かつ分水嶺になります。
「ぼくたち二人とも、超自然的な出来事なんて信じやしないもの。レスパネー夫人母娘は幽霊に殺されたはずがない。この殺人行為者は物質的な存在であり、そして物質的に逃走した。」同上
すべては自然=科学により説明がつくはずであるという近代の確信が新ジャンルを基礎づけるのです(「見せかけの『不可能性』が実際は存在しない」)。さて、感覚に因る誤謬[ドクサ]の犠牲となるのはポオにおいてすでに警察でした。
「あいつ[ヴィドック警察署長]は、対象をあんまり近くからみつめるせいで、よく見えなくなるんですよ。」同上
ドクサを免れ、「分析的知性」に信をおくデュパンが達した意外な結論とは犯人=オラン・ウータンというものです。これは原田実が指摘するように、「猿の惑星」にまで至る、類人猿に対する欧米における文化イメージを考えるうえでも貴重な材料ですが、ここでは『モルグ街の殺人』が探偵物語というジャンルの歴史で残した決定的な意義、つまり英語に detective という単語が生まれる前に今日の探偵物語(detective story)の母型を創っていた点を指摘するにとどめておきましょう。
物語は一般的に<欠乏→欠乏の解消>の状態変化としてみることができます。ところで物語の動きはかならず行為者により媒介されますから、状態変化を行為者の欲望図式に変換することができます。 つまり、何らかの欠乏状態におかれた主体がその欠乏を解消すべくある対象(客体)を欲するという図式が物語の基本形と考えられるわけです。
喉が渇いた人は水を求めるでしょう。物語の世界ではその対象を手に入れるためにはふつうは試練(テスト)があります。花咲爺、舌切り雀などの報恩ものの<やさしさチェックテスト>、桃太郎や竜(怪物)退治ものの<英雄度チェックテスト>がその典型です。
探偵ものを<主体(欲望)客体>の構造図式に変換してみましょう。
主体はもちろん探偵で、探偵がもとめるのは犯罪の真犯人です。古典的探偵の場合、身体的なアクションは二次的なものですから、自分では部屋から一歩も出ずに警察の捜査データだけをもとに推理する探偵もいるほどです。ポオの場合でも、『マリー・ロジェの謎』は現実の殺人事件を新聞記事だけを頼りに解決しようと試みた力技の怪作でした。したがって、古典的探偵が真犯人に到達するまでの試練とはあくまでも知能のテストです。
A.J.グレマスはプロップやエティエンヌ・スーリオの登場人物の構造図式にヒントを得て、主体、客体にさらに援助者、 妨害者 、授与者、受益者を加えています。
それぞれどのような機能をもっているのでしょうか。「桃太郎」を例にとってみてみましょう。
<やさしさテスト>の結果、桃太郎は犬、雉、猿を供に得ますが、彼らが英雄の試練を助ける援助者になります。また、英雄的行為は妨害者を必要としますが、鬼退治の妨害者とはいうまでもなく鬼たち自身です。英雄に使命を与えたり、その使命遂行を助ける手段を与える者が授与者です。「桃太郎」の場合、キビ団子(魔法の力)を桃太郎に与えたのは育ての親ですから、彼らが授与者ということになります。受益者はどうでしょうか。桃太郎の鬼退治により利益を受けたのは育ての親を含む共同体ということになりましょうか。これが、八俣野大蛇退治のように、人身御供になるところだった王の娘を怪物から助ける話でしたら、受益者はもっとはっきりすることになります。
この図式を探偵物語に当てはめるとどうなるでしょう。
この古典的モデルに違犯する探偵物語も多くあります。探偵物語がいかに読者を知的にあざむくかを主眼としたジャンルである以上、古典的モデルのジャンル法則そのものをいかに巧妙に欺くかという方向へ推理小説家の関心がむかっても何ら不思議はありません。
暗黙のジャンル法則への違犯としてしばしば例にだされるものにアガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』があります。この小説の語り手「私」は殺人が起こる村に住む若者です。「私」の目を通して、探偵エルキュール・ポワロの捜査ぶりが描かれます。この点では大団円まで不透明なままである探偵の活躍を、読者と探偵の間のインターフェイスになって報告するワトソン的語り手に近いわけです。ところがワトソンと決定的な違いがあります。大団円でポワロが犯人として指したのは正にこの「私」だったからです。ポワロは語り手「私」にとっては客体ですから、 ポワロが語り手にとって(したがって読者にとっても)不透明な存在であるのは仕方ありません。知的探偵は大団円ではじめて仮面を脱ぎ捨て、透明になるというのが推理物語の常套であることはすでに指摘しました。ところが問題は、本来なら正直に、忠実に事実を報告するはずの語り手「私」が自分の行動の一部、しかも決定的な部分を言い落としていたのです。これも一種の省略法ということになりましょう。
語り手は知っている事実を「正直に、忠実に報告する」任務をおっています。 恐らくこれは探偵物語に限らず、読者が物語一般を読むときの黙約なのです。読者は語り手の語り手としての誠意を信じるというのが読書のルールなのです。でも、これはあくまでも黙約にすぎず、「法的根拠」はありません。『アクロイド殺人事件』は黙約を破ったわけですが、逆にその黙約の無根拠性を暴いたとも言えます。
同じような法則破りは実はアガサ・クリスティの作品に先立つこと1世紀前にすでに紹介した推理小説の父エドガー・アラン・ポオによりすでに成し遂げられていました。彼の短編「お前が犯人だ」(1844)の語り手「私」は犯罪がおこったラトルバラーの町の「善良な人々」の視点からすべてを語るのですが、 ところが実際は「ラトルバラーの善良な人々とは異なった見地から」事件を考察し、ひそかに捜査すらしていたことをすべてが終った後で明らかにします。探偵小説という名称が生まれる前にこのジャンルの母型を作り上げていたポオはまた、その異形の落とし子の親でもあったのです。
古典モデルに対するもう一つのアンチ・モデルとして「刑事コロンボ」があります。
「刑事コロンボ」に登場する「彼」は殺人者です。それはドラマの冒頭ですでに示されています。「彼」は完全犯罪をねらった知的な存在、ドラマの中で最も知的な存在と言ってもよいかもしれません。彼の前に執ように現れるさえないトレンチ・コートを着た男を別にすれば。その男は今日もやってきます。「彼」が犯した殺人事件について推理をひとくさり喋った後、「彼」の反論に耳を傾け、すごすごと退散します。カメラのクローズ・アップがとらえた「彼」の目には安堵の色が浮かびます。そこに帰ったはずのあの男の声が再び聞こえてきます。「彼」の眼差しに一瞬不安がよぎりますが、それをあわてて隠すべく「彼」は口元に微笑をうかべるでしょう。「彼」の名は殺人者、部屋に戻ってきて今思い付いたというふうに最後の質問を発する男の名はもちろん刑事コロンボです。
それでは、このドラマを見る者は一体誰に自らを同一化させるのでしょうか?言うまでもなく、安堵と不安の間を行き来する視線の持主、つまり殺人者にです。物語の冒頭から、観客は殺人者と共にあり、殺人者の心の襞までも見透かしうる特権的な立場に置かれているからです。一方、決して何も語らない視線の持主、刑事コロンボの方は観客にとってあくまでも不透明な対象にとどまります(コロンボを演じるピーター・フォークの片目は実際に義眼です)。これは善悪の物語ではなく、語る眼差しと語らない眼差しのドラマなのです。推理物語の常套にしたがい、知的探偵の知性が大団円で始めて開陳されるときも殺人者はけっしてあがいたりはしません。コロンボの方で暴力をふるうチャンスも全くありません。冒頭で行われた殺人を除けば身体性は希薄化され、かろうじて「彼」の眼差しがその残滓として残るだけです。語らない眼差しの持ち主コロンボはしたがって不死身(invulnerable)ということになります。
以上の3つのモデルはいうならば推理物語であり、冒険は殺人という形で物語の背景(冒頭、幕間)でおこなわれるにすぎません。正面のドラマはあくまでも知的な捜査・推理のドラマです。冒険がすでに終わっているため、探偵の身に危険は迫りません。古典的探偵の場合、捜査は主に知的なパズルであり、自らの身体を賭して、汗水流しながらすすめるアクションではありません。したがって、サスペンスはないことになります。 探偵物語は犯罪→捜査という二つのアクションからなっていることはすでにみました。そして、探偵物語にも探偵が身体を回復するタイプのものがあります。この場合、調査・捜査そのものが重要な物語要素となります。探偵は透明ないし半透明で、捜査の過程は逐一、読者(あるいは観客・視聴者)に知らされます。読者は私立探偵(private eye)とともに捜査状況にそのまま立ち会うことになり、情報もリアルタイムで入ってきます。探偵はもはや天才ではなく、その捜査・推理は試行錯誤の連続であり、我々読者・観客のふつうの頭脳に近いものであるとされています。ここでは、アクションをともなう探偵物語の一ジャンル、ハードボイルドものをみることにしましょう。 |
捜査に体を張るハードボイルド型の探偵がアメリカで生まれたのも偶然ではありません。大都会に住み、車を乗り回しているとはいえ、私立探偵はカウボーイの進化した形なのです。西部の荒くれ者たちはいつの間にか背広を着こなし、自らをギャングと称しています。酒場はナイトクラブに変わっています。しかし、暴力にたえずさらされながらも決然とした態度を保ち、汚れた世界にためらわずに飛び込みながらもどこかに清い魂を隠し続けるところはカウボーイも私立探偵も変わりません。
「タフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きている資格はない。」レイモン・チャンドラーの生んだ探偵フィリップ・マーローの台詞。
ハードボイルド探偵は探偵物語を冒険物語につなぐヒーローといえましょう。
アメリカの1930年代(R.チャンドラーの世界)を1970年代の視点で再現しようとした映画 『チャイナタウン』 (ポランスキー監督、1974)の主人公ジェイク・ギティス(J.ニコルソン)もその一人です。サム・スペードやフィリップ・マーローと異なり、ギティスは金になる離婚問題を主に扱い、羽振りをきかせています。そこへミュレイ夫人と名乗る女性から夫の素行調査を依頼されます。若い女性との密会をなんとか写真にとり夫人に渡したところ、その写真が数日後ゴシップ誌に公表されてしまい、さらにその後、ミュレイ氏の死体がロサンジェルス郊外で発見されます。ギティスは妙な経緯で、本物のミュレイ夫人(フェイ・ダナウェイ)から夫の殺人事件調査を依頼されます。依頼主の女性がうそをつくとか、依頼されたふつうの調査が殺人事件に展開するというのはD.ハメットの『マルタの鷹』以来の常套です。
調査途上で、依頼主ミュレイ夫人とギティスはお互いに惹かれ合うものを感じますが、ハードボイルドものの常で大恋愛にまで進むことのない淡い関係に留まります。ハードボイルド探偵は決して I love you.とは言わないのです。感情を表現せずに、しかもその存在を暗示するというのがハードボイルドもののレトリックということになります。
調査を進めると事件の背後にダム建設にからむ利害対立があったことが明らかになり、ギティスはたびたび危うい目にあいます。そしてついに、ミュレイ氏の元パートナーである地方の大ボス(J.ヒューストン)に会います。彼こそは殺人事件の黒幕であり、しかもミュレイ夫人が15才のときに彼女を陵辱した実の父親であることも判明します。ミュレイ氏が密かに会っていた若い女性とはミュレイ夫人の娘であると同時に妹でもあったのです。
ミュレイ夫人と娘をヒューストンの魔手から救い出すためメキシコへの脱出が計られますが、ギティスにとってはいわく付きのチャイナタウンで何も知らない警察とヒューストン一味に阻まれます。しかもヒューストンに手傷を負わせたミュレイ夫人を警察は射殺してしまいます。無力なギティスに投げかけられた同僚の「忘れた方がいい。どうせチャイナタウンなんだから。」という台詞で映画は終わります。
前半部の緩やかなテンポと後半の加速されたテンポのコントラストの妙。中国人庭師の繰り返す"Bad for (the) grass" やミュレイ夫人の何かを隠している様子など、後半の大団円で実を結ぶことになる種(伏線)が前半で何気なく蒔かれます。テンポの加速はギティスがミュレイ夫人こそ夫殺しの真犯人と誤解し、警察に電話した時点からはじまります。サスペンスには時間制限が必要なのです。ミュレイ夫人の告白により、今までの断片的情報がすべて図を成し、ジクソーパズルが解けたとき、ギティスは今度は警察とヒューストンの手から夫人を守らねばなりません。ヒューストンを相手に真実を暴く大団円が探偵ものの作法にしたがいおこなわれます。ところが、古典的探偵ものと異なり、真実の暴露=司直による正義の実現というわけにはいかないのがハードボイルドものの文法です。ギティスはヒューストンにとらえられ、ミュレイ夫人の隠れる場所へ案内させられます。このように物語を終盤戦で加速させ、一挙に終局へ向かわせるにはギティスが警察へかけた一本の電話が必要だったことがわかります。
ハードボイルド探偵は冷めています。そのくせ血肉の通った人間ですから、愛にも暴力にも曝されます。探偵が冷めているのはまさに愛や暴力に対して、経験から来る経済法則を適用しているからなのかもしれません。確かにハードボイルド探偵は経験からくると思われる冷めを漂わせています。物事の圧倒的に暗い面をすでに見てしまった者、人生に対してすでに大きな期待をもてない者の冷めた視線が、にもかかわらず、不思議な魅力をたたえる女性が持ち込んだ調査依頼により再び一瞬輝きます。暴力があふれる世界での事件の調査は当然暴力を伴います。身体を賭した調査の末、錯綜したからくりは解け、背後にひそむ怪物にたどり着きますが、ハードボイルド・ヒーローはその冒険により宝物(美女)を獲得するわけでもなく、また、冒険を通過儀礼として大人に成長するわけでもありません。彼はすでに通過儀礼を経ていたのですから、今度の冒険はその疑似体験にすぎません。後味は相変わらず苦く、彼の冒険にもかかわらず世界は相も変わらず悪に満ちた様相を呈しています。(蛇足ですが、『チャイナタウン』の結末で悪が罰せられないのは実はチャンドラーのルール「九つの命題」の8に反しています。当時は廃止されていましたが、ハリウッドの映倫ともいうべき ヘイズ・コード [1968年廃止]にも触れます。ギティスはまさに現代化されたフィリップ・マーローだったのです。)
「太陽の光線が私のかかとをくすぐった。眼を開くと、うすいもやがかかった碧い空に立木の梢がかすかにゆれていた。」R.チャンドラー『長いお別れ』
「部屋の中にいた二人は、私のほうを見向きもしなかった。もっとも、一人は死んでいたのだが。」R.チャンドラー『大いなる眠り』
対象への感情は事物を見る仕草、事物と触れあう仕草によってのみ読者に伝えられるだけです。主観を排した眼差しの運動を追う現象学的記述をも思わせるこの新しい文体は『郵便配達夫は二度ベルをならす』(J.M.ケイン)を通してカミュの『異邦人』へと引き継がれ、20世紀後半の文学の新しい文法の遠因ともなります。
「ちょうど昼頃、干し草を運ぶトラックから放り出された。前の晩、南の国境近くで飛び乗り、覆いの下にもぐり込むと同時に眠ってしまった。ティワーナの町での三週間のあとだったからあたりまえだ。エンジンを冷やそうと連中が車を寄せたときも、ぐっすり眠っていた。それで、突き出ていた片足を見つけられ、放りだされたのだ。おどけてみせたが、相手はむっつりしていたので、おふざけは幕にした。煙草を一本恵んでもらい、食い物を探しに歩き始めた。<ツイン・オークス>という店に行き当たったのはそのときだった。」『郵便配達夫は二度ベルをならす』
「このとき一台のトラックが鎖の音と爆音けたたましく、やってきた。エマニュエルが「やれるかな?」ときいた。私は走り出した。トラックはわれわれを追い越し、われわれはそれを追って突進した。私は物音とほこりにつつまれた。もはや何一つ見えず、クレーンや機械、水平線に踊る帆柱やわれわれが沿って走った船体のさなかに、走りたいという滅茶苦茶な熱情だけしか感じなかった。」『異邦人』
ハードボイルドものは犯罪を実験室から路上に投げ出したといわれます(「D・ハメットは、犯罪をヴェネチア・ガラスの花瓶から取り出し、どぶの中に投げ込んだ」R.チャンドラー)。アメリカ式リアリズムの誕生です。ハードボイルドと距離を置こうとしたJ.M.ケインにしても路上の人の文体で書こうとしたのです。
「私はタフだとか、ハードボイルドだとか、冷酷だとかいった文体を意識的に試みたことは一度もない。その登場人物であればそう書くであろう文体で書こうとつとめているだけのことである。」J.M.ケイン「私の小説作法」
それではハードボイルドものは古典探偵ものとはまるで別な探偵物語ジャンルに入れるべきなのでしょうか。確かに新聞記事だけで犯人を演繹しようとしたデュパン(『マリー・ロジェの謎』)と路上で身体を張った捜査が信条のサム・スペードに共通な性格は見いだせそうにありません。しかし、忘れてならないことは、ともに謎解き物語には変わりないという点です。ハードボイルドものの中には極めて複雑な筋をもつものがけっこうあります。ハメットにしてもチャンドラーにしても、筋の終点から遡って書くという「ポオの発見した技法を適用することを余儀なくされている」(ボワロ=ナルスジャック)ことに変わりはないのです。
探偵物語は犯罪者、被害者、探偵という三方向のベクトルをもった登場人物群(ペルソナ)を必要とします。そのどれかに視点を定めその身体性(「生身」)を描き、その身体性に語らせるときサスペンス(非決定の時間)が生じますが、その強度が一番強いのはふつうは無垢な被害者の視点をとったときです。しかし、探偵が同時に潜在的な被害者である場合もあります。 |
「刑事コロンボ」も推理物語の新ジャンルにすぎないことは上で示したとおりです。ところが、このドラマのコード(物語の契約条項)は主人公がマダム・コロンボに取って代わられるやいなや反転します。「マダム・コロンボ」では、刑事コロンボはたえず夫として父として言及されながらも、いつも出張で決して姿をみせることはありません。永遠の単身赴任者を持つ家庭は直ちに攻撃に晒されうる(vulnerable な)存在と化します。
アマチュア新聞記者として捜査をするマダム・コロンボにはおまけに小さな娘がいます。この娘は実はワトソン氏に似た説話的機能をもっています。つまり、ドラマを見る観客の好奇心を代理し、素人探偵である母親の話し相手となることで探偵に考えていることを語らせる役割がそれです。ワトソン氏と異なる点は探偵(マダム・コロンボ)の 被攻撃性(vulnerability)を強める存在である点です。ホームズもワトソンも犯罪者にねらわれることはありませんが、マダム・コロンボの場合はちがいます。もし犯罪者が彼女の捜査の進捗具合を知ったとしたらどうなるでしょうか?おそらく捜査妨害をするでしょう。場合によっては危害を加えないとも限りません。このとき生じるマダム・コロンボの被攻撃性(vulnerability)を操作するのがカメラ・ワークです。
カメラが追うのはもはや眼差しではなく、内部の均衡を破ろうとしている外部です。家の中には母と娘がいます。外には今やこの一家が邪魔になった殺人者が網を張っています。ドラマを見る者はしたがって内と外の両サイドからの情報が入るという特権的な立場に一時置かれます。家に近づく殺人者。ところが、ここでカメラは殺人者の動きを追うことを突然やめます。何かが起こりつつあるという予感を覚える母子。外部からの情報が一切とだえた観客は母子とともに外部=悪の遍在をパラノイア的に予感することになるでしょう。情報の提供とその突然の遮断が サスペンス の条件です。知的(頭でっかち)探偵と違い、身体をもった探偵はいつの間にか潜在的な被害者と化しています。身体をもった探偵による捜査はそれ自体が冒険なのです。
探偵物語は謎の提示と探偵による謎の解明で終わります( 知能テスト ) 。しかし、現実の事件はすべて解決されるわけではなく、迷宮入りする事件ももちろん数多くあります。そうしたケースは探偵物語で扱うことは不可能なのでしょうか。また、犯人をつきとめるという単線的な物語は「あらゆる犯罪は同定可能な悪人によっておこなわれる」というイデオロギーに依っていますが、そうした因果論的単線性に還元しきれない物語というものはないのでしょうか。ウンベルト・エーコは『バラの名前』の修道士=探偵に次のように語らせています。
また、真実を追う探偵の行為が探偵自身の秘密に辿り着き(ヒッチコック『白い恐怖』)、さらに探偵自身の破滅をもたらすとしたらどうでしょうか(『エンジェル・ハート』)。こうした「反ー探偵小説」(ステファーノ・ターニ)の例の最も古く完璧な例はソフォクレスの『エディプス王』です。 |
ギリシャ悲劇の名作『エディプス王』(紀元前5世紀)は謎を解く物語です。それゆえ探偵小説のプロトタイプにあげる人もいるほどです。エディプス王はその謎が単なる探偵物語の謎解き(Whodunit)にすぎないと思いこみ捜査の陣頭指揮をとります。ところがその謎の中心人物(真犯人)は彼自身に他ならなかったというどんでん返しが最後に待ち受けています。2千年後のウィーンでは一人のユダヤ人医師が次のように主張することになりましょう。エディプスの謎は実はわれわれすべての人間が背負っている謎(業)であると。これは エディプス・コンプレックス と名付けられます。件の医師、フロイト博士が創始することになる精神分析はこの謎を個々の例のうちに解こうとする捜査プロセスに他なりません。それでは根源の悲劇ともいうべき『エディプス王』とはどんな物語なのでしょうか?ソフォクレスの『エディプス王』をとりあげてみましょう。
物語がはじまる20年ほど前、テバイの王ライオスにアポロンの神託がくだされていた。やがて生まれる子供に殺されるというのである[神託1]。神託の実現を怖れたライオスは妃イオカステとの間に生まれた子(X)を羊飼いの手に託し、その子を死なせることを命じる[crime 1:子殺し]。後年、ライオスは再度アポロンの神託を乞うために4人の従者と旅にでるが、その途上(三筋の道が合わさるところ)で殺害される[crime 2:王殺し]。一人逃げ帰った従者は犯行が盗賊どもの仕業であったと告げる。因みにこの従者は先の羊飼いその人であった。一方、王を失ったテバイには新たな難題が持ち上がっていた。スフィンクスが人々に謎を出し、それを解けないテバイ人の命を次々と奪っていたのである。そこへ通りかかった旅人がコリントス王ポリュボスの嫡子エディプスであった。彼はスフインクスの謎を見事に解き、テバイを救う。英雄としてテバイの王座に迎えられ、ライオスの妃であったイオカステを妻に娶る。[ここまでは怪物を退治した英雄が王の娘を娶るという英雄物語の典型(「古事記」の八俣野大蛇退治、「トリスタンとイズー」の怪物退治など)に近い]
平和なときがおとずれ、王夫妻は4子をもうける。その後、テバイに再び災厄がおとずれ、疫病と飢饉に民はあえぐ。悲劇『エディプス王』の幕前に以上の話がすでに起こっており、すでに十分にストーリーの種は蒔かれている。したがって、幕開きとともにはじまるのは蒔かれた種が実(悲劇)として結実する時間的にも凝縮された濃密なドラマである。すでに蒔かれていた種(情報)は回想(フラッシュバック)として劇中に劇的効果をともなって導入されることになろう。いよいよ劇のはじまりである。
災厄に対する対処はアポロンの神託を乞うことである。エディプスの依頼をうけ、義弟クレオンが持ち帰ったアポロンの神託とは次のようなものであった。「この地にはひとつの汚れが巣くっている。さればこれを国土より追い払い、けっしてこのままその汚れを培って、不治の病根としてしまってはならぬ」。そしてその汚れとは、クレオンの解釈によれば、先王ライオスの殺害[crime 2]であり、したがって国土より追い払うべきはその下手人ということになる。
かくしてエディプスは下手人の捜査に乗り出す。方法は二つ。一つは下手人本人の自首、あるいは証人による証言(犯行の唯一の目撃者である羊飼いは物語の終わりにやっと登場する)。もう一つは盲目の予言者テイレシアスに聞くこと。言いよどむテイレシアスの口を無理に開かせたのはエディプスである。テイレシアスはエディプスに投げかける。「この地を汚す不浄の罪人、それはあなただ」「あなたのたずね求める先王の殺害者は、あなた自身だ」「あなたはそれと気づかずに、いちばん親しい身内の人と、世にも醜い交わりをむすび、しかも自分の置かれた運命が、どんなにおそろしい不幸であるか、それがあなたには見えないのだ。」「目あきにして盲であるとは、あなたのことだ」[証言1]
ところが、この段階ではエディプスはテイレシアスの言うことを信ぜず、クレオンの策略と決めつける。
二人の仲裁に入ったイオカステは以前ライオスに下された不吉な神託のことを語った[証言2]。イオカステとライオスの間に生まれた子の手にかかってライオスが殺されるという神託[神託1]である。ところがライオスは「三筋の道の合わさるところ」で盗賊の手によって殺されたのであり[crime 2]、子供の方も留め金で両踝を刺し抜いたうえで山奥に捨てられた[crime 1]のだから、結局神託は当てにならないというのがイオカステのエディプス弁護論である。ところが、この話を聞いたエディプスは不安にかられる。イオカステの述べるライオスの外観はエディプスが以前に路上で殺めた人物にそっくりだからである。ここでエディプスは以前に自ら得たアポロンの神託を思い出す。コリントスに居た頃、自分が実子でないといううわさを耳にし、それを確かめに赴いたところ、アポロンの神託が「自分の母親と交わり、それによって、人々の正視するに堪えぬ子種をなして世に示し、あまつさえ、自分を生んだ父親の殺害者となるであろう」と告げたというのである[神託1’]。エディプスが旅に出たのもそうした事態を避けるためだったのだ。そこへエディプスの実父とされるコリントス王ポリュボスの老衰死が使者により報告される。父の死を悲しみながらもエディプスは神託の半分(父殺し)は見事にはずれたことに安堵する。しかし、それもつかの間、使者はエディプスの不安をさらに完全に解くため、エディプスがポリュボスの実子ではなく、キタイロンの山奥にいた捨て子(留め金で両踝を刺し抜かれていた)であったこと、ライオスの家来である羊飼いからもらいうけたという出生の秘密を明かす[証言3]。その話を聞いたイオカステはあわてて走り去ってしまう。[ここで使者はエディプスの不安を除くために生い立ちの秘密を明かすのだが、これが逆効果となってしまう。エディプスの素性の認知(アナグノーリシス)が同時に筋の展開を逆転(ペリペテイア)させるこの部分をアリストテレスは『詩学』のなかで高く評価している。]
決定的な証人が登場する。キタイロンの羊飼いである。はじめは証言を拒んだ男もエディプスに脅され、真実をいうことになる。その昔、羊飼いがコリントスの使者に与えた子とはライオスとイオカステの子[X]であった[証言4]。[crime 1]は行われず、[X]はポリュボスの養子となったのであるから、エディプスこそ[X]だったのである。アポロンの神託は完璧に実現されていたのであった。
イオカステは首をつり、エディプスも自らの両目をくりぬくという悲惨な結末で劇は終わる。
神託のメカニズムはその両義性にあります。神託を聞き、その実現を妨げるために講じた手段が実は神託を実現させてしまうという皮肉な転倒こそ神託の目論見なのです。父殺しは、ライオス(父)が神託を信じてエディプス(子)を(この世から)遠ざけようとした結果であり[父が誰かわからなくなる]、また、エディプスが神託を信じて放浪の旅にでた結果でもあります[父に再び近づく]。スフィンクスの謎を解いたエディプスがアポロンの神託という謎に翻弄されるのは悲劇の厳密なメカニズムの必然的な結果なのです。アリストテレスは悲劇が「予期に反して、しかも因果関係によって起こる場合もっとも効果をあげる」と述べていますが(『詩学』第11章)、神託の両義性こそ意外性と因果性という二重の効果を実現する特権的な媒体ということになります。
一方、下手人捜査の物語である以上、『エディプス王』はまた探偵物語でもあります。証人が次々と登場し、エディプスの前でときに嫌々ながら証言するという点では、裁判劇といった方が正確でしょうか。予言者テイレシアスによる犯人=エディプス説には根拠がありませんが、探偵エディプスの叔父クレオンによる謀略説もそれ以上に根拠があるわけではありません。イオカステはエディプス弁護のために、神託の内容とライオス殺害の状況の不一致を証言しますが、これは複数の盗賊によるという部分を除けばエディプスのフラッシュバックとかえって一致してしまいます。コリントスの使者がエディプス弁護のために提出した新証言は、最後の証人キタイロンの羊飼いにより裏付けされ、さらに複数盗賊説が否定されることにより、エディプス=真犯人説が証明されます。こうした証人の出し方もソフォクレスは巧みです。まさに「予期に反して、しかも因果関係によって起こる場合もっとも効果をあげる」というアリストテレスの悲劇理念に完璧に合致しています。探偵が真実を暴くべくベールを一枚一枚取り去ると最後には探偵こそが真犯人であったという驚くべき事実が現れる物語、真実探求の仕草が探偵の自己破滅をもたらす物語をステファーノ・ターニは「反ー探偵小説」と名付けましたが、『エディプス王』こそ反ー探偵物語の最高傑作と申せましょう。
推理小説の三本柱は探偵、被害者、犯人です。サスペンスものでは探偵と被害者を同一人物が演じることがよくあります(例:ヒッチコック、ボワロー・ナルスジャック)。ところで、探偵=被害者=犯人という三位一体の推理小説を考えられますか。 |
「私がこれから物語る事件は巧妙にしくまれた殺人事件です
私はその事件で探偵です
また証人です
また被害者です
そのうえ犯人なのです
私は四人全部なのです
いったい私は何者なのでしょう」
というキャッチ・コピーをもつ推理小説が セバスチャン・ジャプリゾ 作『シンデレラの罠』です。
物語は「私」の目覚めから始まります。目覚めは常に無からの誕生のドラマです。「今」がいつなのか、「ここ」がどこなのか、「私」が誰なのか。目覚めのプロセスとはこうした存在についての根源的な問いに対する答の模索に他なりません。『シンデレラの罠』の「私」の場合、これらの問いは特に切実な意味を持ちます。なぜなら、彼女はある事件のために全身に火傷を負い、しかも記憶も喪失しているからです。事件(火事)の被害者としてまず登場する「私」は、整形手術により身体を新たに創造しなければなりません。また「私」の過去を再構成することにより「私」のアイデンティティも創造しなければなりません。しかも決定的な情報が欠けています。私は事件の場に居合わせたド(ドムニカ・ロイ)なのでしょうか、ミ(ミシェル・イゾラ)なのでしょうか?また、火事場に残された焼死体の身元はドなのでしょうか、ミなのでしょうか?
探偵となった「私」によるアイデンティティ探しが始まります。身体と記憶を喪失したのですから、自らのアイデンティティと事件での役割についての情報源はすべて他者ということになります。他者という鏡を通してのみ自分のアイデンティティを再構成できるというのがこの物語の仕掛け(わな)です。
ミの恋人は「私」がミだと言います。最重要の証人、ミの後見人であるジャンヌ・ミュルノは「私」がドだといいます(「こんばんわ、ド」)。ジャンヌによる過去の再構成は恐るべきものでした。ミとドの関係が主人と奴隷のそれであり、ジャンヌとドの間でミを殺す計画があった。しかもミドラおばさんの遺産相続のため、殺害後ドがミのふりをすることまで決まっていた、というのです。したがって、これからも私=ドはミを演じ続けるより他はないのだと(「いいこと、あなたはミッキーよ」)。
次に新たな証人、郵便配達夫が登場します。彼によれば私はミであり、犯罪計画を知った私がそのウラをかき、潜在的被害者から殺人者になったというのです。私=ミがドを殺したのだと郵便局員はゆすります。また、ドの恋人もあらわれ、やはり私=ミがドを殺したのだと言います。なぜなら「遺産相続人はドなんです」。
こうしてアイデンティティ探しは振り出しにもどります。「私」はミなのか、ミを演じるドなのか。私は加害者なのか、被害者なのか。「私は誰か言ってよ、ジャンヌ」 しかし、以上のデータから「私」のアイデンティティを演繹できないわけではありません。「私が白い光の下で目をあけたときから、ジャンヌは私をドとみなす唯一の人だった。私の会う人々は、私の恋人や、父まで、私をミと思った。なぜならば私はミだからだ。」
「私」はいわばリセットされ、ゼロからまた始めなければならないゲームの別称であり、ゲームを通じて作り上げるべき対象でもあります。予言者テイレシアスがエディプスに投げつけたことば「目あきにして盲であるとは、あなたのことだ」は『シンデレラのわな』の「私」にも当てはまります。他者には見える自分の姿が見えないのは「私」だけなのです。捜査方法もエディプスの場合と同じで、複数の証人に問うより他にありません。証言の間の矛盾を解き、「私」の真のアイデンティティを明らかにする真の証言を見極めるという探偵=判事の推理力が必要となります。反ー探偵物語で捜索すべき真実とは私=探偵の真のアイデンティティということになります。
探偵物語にふさわしい犯罪が殺人であることは多くの人が指摘しています。殺人は理論的には殺人者、被害者、探偵の三つの異なる立場から語り得ます。古典的な物語は探偵(あるいは探偵に近い位置にいる人)の立場から語られました。「犯罪の物語は、やはり探偵の側から見るのが一番眺めがいい」(E.M.ロング「犯罪と探偵」H.ヘイクラフト編『推理小説の美学』研究社)という考え方がうまれる所以です。しかし、実際には犯罪を犯罪者の立場から描く物語にも数多くの名作があります。いわゆる純文学にはむしろ犯罪者の視点から書かれたものの方が多いくらいです。『罪と罰』『異邦人』『郵便配達夫は二度ベルをならす』『太陽がいっぱい』『死刑台のエレベーター』『殺人の夏』。犯罪者の物語については別のページが必要になるでしょう。 |